HAZE


<オフィシャル>
「夢」をモチーフに映像化する例はけっこうある。最近見たのでは『パプリカ』がそうだった。しかし「夢」の感覚そのものが映像のなかに顔をだす作品はあんがいすくないような気がする。ようするに「夢ってこんな感じ」と、覚醒しているときの理性が再構成したものがほとんどだということ。『パプリカ』はどちらかというとそっちの作品だった。同じアニメーションでいえば、意外に宮崎駿が夢の感覚をもっている作家なんじゃないかと思う。たとえば、主人公のありえない垂直の移動、落下、地表への激突の回避、というよく出てくるシークエンスにそんなものを感じる。
さて、塚本晋也の中篇「HAZE」は悪夢的感覚がほとんど翻案されずにそのまま映像作品になっているという意味ではかなり突出している。ちなみに、未見のかたは、この先は読まずに見たほうがいいと思いますよ。


映画は45分の、ある意味スケッチ的な作品で、映像的な密度も脚本の密度もあまり高いわけではない。ただし、このダイレクトな感覚直撃はウェルメイドな大予算映画でも、そうそうあじわえないものだ。塚本晋也おなじみの先端恐怖的なシーンもあるが、それよりも「体のうごきを空間に制限される」という感覚の不快感・不安感の表現がこの映画の一番インパクトのある部分だろう。スプラッターにも痛覚にも生理的嫌悪にもたよらない純粋な表現。正直、この手の悪夢の経験がばっちりあるので、これはキた。胃も痛みだした。漫画家つげ義春がいちばん病んでいた時代の漫画にもちょっとこれに共通するイメージがある。
とにかくそこには説明的な要素はいっさいない。ただ気がつけばその状態にある。悪夢に説明はいらない。主人公はなぜその常態におちいったのかわからないので、この状態を脱するためのなんの手がかりもあたえられない。出口なし。そしてようやく恐怖を脱したのかと思っていっしゅんほっとすると別の恐怖にとりつかれている。そのシーンのつながりさえあたえられず、ただ映像が切り替わるだけなのだ。ストーリーの方向性はいっさいしめされず、ただ感覚をひりひりと刺激するシーンがつづくので、見ているぼくはこの悪夢からさめるときがくるのか、それとも最後までこれに耐えなければならないのか、という別の意味の出口なし感に、期待と恐怖でさらに動悸がたかまった。塚本映画おなじみのインダストリアルなノイズミュージックもギシギシと不快感をもりあげてくれる。

さて、しかし中篇映画とはいえ「それのみ」ではもちきれなかったようだ。中盤からすこし分かりやすいスプラッター的なイメージがあらわれたり、他のキャラクターとのなぞめいた出会いや別離があらわれたり、そのご「窒息」の恐怖をへて、最終的には悪夢的シーンにある「意味づけ」がされてしまう。こうした後半の展開のおかげで、この作品はただのイメージのられつではなくてひとつのストーリーらしきものをもった「作品」としてまとまっている。でもなあ・・・正直それほど意味があるストーリーでもないし、せっかく前半であれだけ突出した表現をして見せたのだから、へんにそれに意味づけをせず、もうアートフィルムとしてこの痛みだけで突っ走ってくれたらすさまじい映画になったかもなあ・・・と、ちょっと思う。

とにかく、この映画に出てくるような悪夢にさいなまれた経験がある人にとってはわすれられない作品になるだろう。

結論。『善兵衛が(ちがう意味で)ハートわしづかみにされた!!』