ワンダーストラック



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ストーリー:1977年。父を知らない少年ベン。事故で母をなくし、親戚の家で育てられている。ある晩落雷のショックで耳が聴こえなくなる。「ダディに会いたい…」病院を抜け出したベンは長距離バスでニューヨークにむかう。手がかりは2つ。ある本屋のカードと自然科学博物館のパンフだ。少年は雑踏の中をさまよい続ける。その50年前。同じニューヨークの雑踏に1人の少女が立った。唖のローズだ。ろうあ者としての生き方を押し付ける父に反発して、舞台女優になった別れた母に会いにきたのだ。いろいろあってローズもまた自然科学博物館にきていた…

1927年と1977年。なんでこの2つの時期なんだろう。1927年は現在からみれば90年前、歴史上の時代になりつつあるけれど、50年前ならその辺にも当時の記憶がある人がいくらでもいる。お話上「今」の1977年パートを現在だと思って見ているとそのギャップにんんっとなる。何十年か前を「今」に設定して昔を振り返る話法。そういえば『昭和元禄落語心中』がそうだ。あれも巧みな時間設定だった。物語の中の『昔』が生き生きとしてくるんだよね。「今」をさらに現在からふりかえると、ノスタルジックな切なさがより深まるというのもある。
現在から40年前と90年前、2つの「昔」の描写はすばらしい。前作『キャロル』では1950年代のNYをボルチモアロケでエレガントに再現した監督は、本作ではブルックリンの一角を改造して(もちろんCGでかなり足しているだろう)、過去の街の風景ををちゃんと引いたカメラで見せる。とくに気に入ったのは77年のNY。その時代っぽい派手でぴたぴたした服の人たちが街の風景になる。黒人の多いエリアなのが人々の姿からわかる。映像の質感は粒子が粗く、赤身によった色調だ。

本作は「音」が重要なモチーフになる。なんといったって主人公2人が耳が聞こえないんだから。ローズのシーンはサイレントムービー調。彼女の意思は、表情と、たまに見せる筆談と、行動にあらわれる。ローズはとても行動的。彼女が冒険のすえお兄さんに再会するシーンがとてもいい。未知の大都会を1人でさまよう彼女が、ようやくほっとできる場所にたどり着く。ローズ役ミリセント・シモンズはローティーンだけど、若さの魅力というのじゃない雰囲気があって、女優生命がとても長そうだ。ローズのパートは、原作ではテキストのない絵だけのページで表現されていた。
いっぽうベンは最近まで聞こえていたから発話ができる。かれはNYで1人の少年と友達になる。2人の会話シーンは、聞こえないかれだけが喋り、相手が声を出さないという奇妙な逆転が起こる。ベンのシーンの音声は時には音楽がかかり、時には雑踏の音だけが流れる。ベンには聞こえない音だ。それを実感させるためか、雑踏の音はふっと途切れて静かになる。1回見ただけだから記憶違いがありそうだけど、そんな音の使い方をしていた。

2人が時を越えてすれ違う自然科学博物館。少年(およびおっさん)の気持ちの揺れを描いた『イカとクジラ』のだいじな舞台でもあった。古く巨大な博物館。そこにはさまざまな野生生物とその環境の模型があり、子供2人が楽に暮らせる場所がひそんでいる。あ、見てないけど『ナイトミュージアム』ってあったね。本作もまさしくナイトミュージアムのわくわくしたシーンがある。そして終盤にかけてこれもブルックリンに実在するのか巨大な展示室いっぱいのNYの模型があらわれる。模型をきっかけにある回想シーンが人形を使ったストップモーションアニメでつづられる。
本。展示模型。街の模型、人形。そんな実物じゃないはずのあれこれがある家族の真実の語り部になる、みたいな映画だった。2人のこどもの冒険。前半は「はじめてのおつかい」的に雑踏のなかのこどもをはらはらしながら見守ることで引っぱる。けれど冒険自体はそんなにスペクタクルなわけじゃなく、博物館に吸い寄せられるためのプロローグだ。博物館という、ある意味時を止めるための施設が、だからこそ時を越えた出会いを可能にする。ワンダーがあるとすれば時の飛躍のほうだった。ラスト近く、1977年にじっさいにあった事件が印象的に使われる。1977年7月13日、ニューヨーク大停電だ。