この世界の片隅に


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ストーリー: 広島の海辺の集落にすむ少女、浦野すずは、数え年18で呉の北条家へ嫁に行く。昭和18年のことだ。戦時中とはいってもまだまだ呉での生活はのんびりしたものだった。少し抜けたところのあるすずだけれど、新生活にはそれなりの苦労もつらいところもあった。そんなどこにでもある暮らしのトーンは昭和19年をすぎ20年に入り、だんだんと重苦しいものに変わっていく…….
映画を見てから原作を読んだ。『夕凪の街 桜の国』も読んだ。本作、単独で充分に楽しめる映像作品だと思うけれど、ストーリー・キャラクターはもちろん、ビジュアルも、ただよう空気も原作にかなり沿っている。こうの文代の原作漫画は、主人公がちょっとむかしの漫画みたいな寸づまりで、おわらいシーンではいまどき足を上にしてコケたりするからぱっと見は素朴派っぽい。キャラクターの顔立ちもそんなに個性があるわけじゃない(ひたすらかわいい)。でもストーリーテリングはものすごく巧みだし、ところどころに急に絵画的なシーンや技巧的な時間の移り変わりを入れてくる。

素朴っぽい絵にしても、背景はとても達者で雄弁で、人物はかならずその空間のなかのちゃんとした場所におかれている。どういう意味かというと、一見背景があっても、物理的にはありえない関係で人物が描かれてる漫画って意外とおおいのだ。それはともかく。キャラクターはシンプルなぶん、演技のつけ方が細かくてニュアンスが豊富だ。さいきんの技巧派漫画がますます映像的、それもVFXとCGのギミック的画面の再現ぽいのにたいして、彼女の漫画はかつてのていねいに撮られたホームドラマのそれだ。
そんな原作のそれぞれを監督は強化した。人物は通常の日本産アニメで省略している動画を増やして、動きのニュアンスを細かくした。ちなみに原作の人物は、頭身が小さいわりに手足がおおきい。これは作者の表現上の必然なんだろうと思う。モブに近い小さな人物でも手足で演技をさせるのだ。アニメのちまちました人たち、そのなかでもちいさいすずさんであっても足は大きく、しっかり地面を踏みしめている。その手足が、シンプルな絵にはふつりあいなくらいに、雄弁に演技をするのだ。それがある種の生きる力を感じさせる。手の描写がこまかいのは演出上だけのことじゃない。やがてとてもとても大きな意味を持ってくるのだ。
背景や小道具は、もともと史実に忠実な原作の、リアル成分をさらに増強して、ドキュメンタリー並に再現した。いろんな解説やインタビューで言われていることだ。全体のトーンにあわせて、写真的リアルさに突っ込んではいないけれど、風景の重みは圧倒的にました。なんていうんだろう、原作が主人公の心情や境遇に感情移入して入っていくタイプの作品だとすると、映画は(のどかの絵のトーンにもかかわらず)よりその中にいる感覚を観客に持たせるものになったと思う。

世界のなかにいれば、俯瞰して説明してくれる天の声なんてない。お話はディテールにすべてを語らせる語りくちにした。画面のあらゆるものが意味を持って、物語の一員になろうとする。お話も圧縮されているから、画面もセリフも情報のひとつひとつの重みが段違いに重く、密度が異様に高い映画になった。プロローグをはずせば2年ちょっとの話、でも結婚前後の2年間の実人生を圧縮すれば誰だって濃密になるはずだ。いや当人からすれば「変わりばえのしない...」ものかもしれない。でもそれをていねいに再現しようとすればね。
すずさんの日常に、今と同じようでいてずいぶん違う70年前の人生に、なにを思うかはほんとにそれぞれだと思う。ここまで読んでくれた方は感じるかもしれないけれど、ぼくは何を思ったかうまく説明できない。だから書いてない。わかりやすく感情に訴えるシーンはいくつかあって、ぼくもちょっと泣いた。でも監督は「感じ取るための材料を提供する」というような言い方をする。その材料は、どっちかの方向にあからさまに誘導しようとはしてない。そのかわり解凍するとぶわっと大量のフォルダがでてくる圧縮ファイルみたいに、ていねいにつくられた材料はぎゅっと詰まっている。1度じゃぜんぶ消化しきれないくらいに。のんさんの声は予告編を見たときはちょっと幼すぎるんじゃないかと思った。でも本編を見たら、ちゃんと少しずつ声も成長させて芝居をしていたのだった。