ミッドナイト・イン・パリ

<公式>

奇跡みたいに才能が集まる一瞬がある。トキワ荘なんてそうだ。それから、ボサノヴァが誕生した時のリオの一角。中上流の坊っちゃま嬢ちゃまがサロン的につるんで音楽や詩を披露してる中に、たまたまジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ ヂ・モライスがいるわけだ(この辺の感じがドキュメンタリー『This is Bosa Nova』で語られてる)。それに1920年代のパリだ。

フィールド・オブ・ドリームス』が、神話的時代のベースボールヒーローとの出会いのファンタジーだったとすれば、文科系にとってのカルチャーヒーローとのファンタジックな出会いを、けっこうストレートに描いてるのがこの映画だ。苦味も悩みも謎解きも説明もなくて、ひたすらに幸せな時間だけがある。おまけに中心にいるミューズが、むこうから惚れてくれるのだ。その場所が球場じゃなくてパリ。

ちょっと前の『17歳の肖像』で「こんなに無邪気にパリへの憧れを描いてるのはひさしぶり」と書いたけど、意外にすぐにまた出会った。アレンのインタビューを見ると、持ち込まれたご当地映画企画か.....? という香りも微妙にただよってくるけれど、それでも好きじゃなければこういう風には撮らないだろう。現代のパリにも好意的だ。

過去を黄金時代として描くといえば『Always 三丁目の夕日』がある。でもあまり似てない。アレンは「現代社会になくなってしまったアレが、その時代には確かにあった」式の、偽装されたノスタルジー的な視線からは距離をおいている。だいたい、この映画では、時代そのものを、そんなにリアルに見せようとはしていないのだ。

アレンはインタビューで「その時代に行くなら1日でじゅうぶん、住みたいとは思わないよ」といっている。本音というより「そういうタイプだと思わないでね」ということだろう。もちろん映画でもギルにそう言わせているし、ちゃんと現代だって楽しいよ、というオチにしている。
まぁ、そんな感じで、話のシンプルさも、1920年代に出てくるタレントたちが、ものすごく分かりやすいメンツなのも含めて、さらっと見れる一本だった。個人的に最高なのはエイドリアン・ブロディだ。出てきた瞬間に笑えるよ!

ヤギと男と男と壁と


<予告編>
ジョージ・クルーニー。ゴージャスな容姿とかなりアクティブな社会派としての活動。リベラルなハリウッドスターは珍しくないけれど、日本にはこのバランスはあまりいない。ミュージシャンにはけっこういるのに俳優には少ない。ま、日本の役者さんテレビでないわけいかないから(演技仕事は映画メインでも、いやだからこそか、CMにはでるしな)表立ってはアレなのかね。ジョージはこの映画の製作陣でもある。
実在したというアメリカ軍の超能力部隊「新地球軍」が回想でかたられる。指揮官がニューエイジ思想にかっぽりとはまり、部隊自体がそれ風になっているという絵面が、アメリカの「はずれもの部隊」モノの伝統を思い出させる。『MASH』とかね。隊員の髪型や、とくにヒゲがMASHっぽくておかしい。現在の話として、部隊のOBリン・キャシディ(クルーニー)と記者ボブ(ユアン・マグレガー)のイラク戦場ロードムービー風にもなっていて、基本的に楽しい映画だ。ジョージはこの映画では微妙にマッチョな田舎者風の感じにチューンしていて、あれだけ濃い顔でキャラの微調整は難しいかとも思うんだけど、まあ役者ですからね。

闇の列車、光の旅


<予告編>
列車の屋根に無賃乗車して貧しい人々が旅をする。『天国の日々』もそうだった。旅が帰る場所のあるものだとすると、これは旅じゃないかもしれない。違う世界に脱出するために彼らは屋根に乗る。『天国の日々』の舞台は90年前。アメリカでは歴史上の風物だろう。メキシコを縦断する彼らは2000年以降、現在だ。
この話のかすかな救いは、暖かく緑豊かな土地を列車が行くことだ。凍える寒さも、地獄のように照りつける日光もない。それでも警備隊に降ろされたり、疲れ切って転落する人もいる。
とはいってもこの映画、旅の映画以上に、「第三世界少年ギャングもの」だった。ほぼ『シティ・オブ・ゴッド』の世界だ。『ゴモラ』にも共通してる。
メンバーとしての子供のリクルート、イニシエーションとしての暴力、そしてメンバーシップをえた子供が急に残酷になる感じ。アフリカ少年兵ものにあるみたいに、子供の攻撃性は、武器を持たされたら、それで十分に人を殺せるくらいの残酷さを持ちあわせているのだ。

さんかく


<予告編>
ストーリー:同棲しているカップル(高岡蒼甫田畑智子)のところに彼女の妹(小野恵令奈)が夏休みに遊びにくる。無邪気をよそおいつつ何げに女を全開にする妹に、男はあっという間にはまる。妹が田舎に帰っても気持ちはおさまらずに、その勢いで女と別れてしまう。あきらめられない女は...

この監督、ほのぼのとした雰囲気をただよわせつつけっこう切り込んでいる。「ふつうの日常にひそむナニを不気味に描く」系の映画はあるが、この映画のばあい、けっこう不気味な出来事をほのぼのと可愛く描く。
そもそも30男が(そしてその視線を借りた観客が)中学生をあからさまな性的興味の対象として見ているわけだからね。もちろん犯罪的に一線を越えるわけではないし最終的にはアホとしてある種の断罪をされるんだけど、元AKBの子とかが普通に出るんだ...という意外感はちょっとある。
主演の3人との友達役の矢沢心、 それぞれ絶妙に残念な感じをにじませていていい。監督の「田畑智子は演技のトーンの微調整ができる」という言葉になかなかしびれた。いらいらした、でも可愛いところのある女→あきらかに一線を越えてしまっている、でも可愛いところのある女ときて、最終的には菩薩化する。
姉妹の実家は、お話上はわりと遠そうだけどロケ地は飯能。広々した敷地が生垣で囲まれる農家風だ。いっぽう、ここで描かれる東京があまりにも「いけてる東京」じゃないところが面白い。パッとしない東京。

おおかみこどもの雨と雪

<公式>
ふしぎな脚本ではあった。でも泣けた。気持ちよくね。よかったのは親子三人が雪の山を駆け回るシーンだった。親が、とくに母親が全開で子供と走り回れる時期なんてホントに短い(スポーツしてれば別だけど)。その一瞬のかがやきを祝祭としてテレもなく描いた。
見た人が掘り下げずにいられない母性についての話はやめとく。けっきょく、母親の花がなんでおおかみこどもの姉、雪をだれが見ても気になるくらいにほおっておく話にしたのか、よくわからないのだ。
自然描写はジブリ的な手描きリアル+CGの雪や動きの表現で、十分に美しかった。こういう技法は刻々と変わっていくんだろうし、ストレートに絵画的な『イリュージョニスト』や、いま公開してる『かぐや姫の物語』のほうが古くなりにくいかもしれない。この映画はCGとの取り合わせもあるんだろう、手描き風タッチの味は宮崎駿モノよりも薄味になって、実写を見るのにい近い心地よさの映像だった。
それに比べて、ぼくの好みからするとやっぱりキャラクターは背景から浮いているし、あまりにもマンガ寄りすぎる。高畑勲がこういう描き方について話しているインタビューがあった。この技法は、主観的に物語に入り込ませるためなんだという。一つの絵として外から観賞するなら人と背景のタッチがなじんでいるほうが完成度が高いはずだ。『イリュージョニスト』、高畑監督の『となりの山田くん』もタッチの統一感への挑戦だった。それに対して、主人公をシンプルで記号的なキャラクターにして観客が同一化しやすくすることで、リアルに描いた空間を体験しているみたいに見てもらうということだろう。たしかにこの映画も『カラフル』も主人公の顔にくせがなさすぎるくらいないのだ。
僕の好みは別として、なるほどとふにおちた解説だった。ていうかそれ的なこと書いてるなカラフルで…

野良猫ロック 女番長/野良猫ロック ワイルドジャンボ


<予告編>
日活のサイケ&ポップカルチャー&無軌道青春モノ。どうみてもかわいい梶芽衣子、范 文雀、それに一人だけ人種がちがうような体つきの藤竜也。当時っぽいファッションとかバンドのライブシーンとか、『女番長』では大根っぷりがまぶしい和田アキ子の存在具合とか、最初期型のジムニーLJ10とかダイハツフェローバギーの豪快な階段降りとか、けっこう楽しめる。
なにより1970年頃の東京の風景がびしびし写っていてぼくにはむしろそっちが楽しい。『女番長』は新宿。西新宿が高層ビルエリアになる前、淀橋浄水場が廃止されてすぐくらい。びっくりするくらい荒涼としていて、「東京の中心」感はまったくない。完全な辺境だ。東新宿の盛り場もこういうつながりで映されると荒野の町にある飲屋街みたいに見えてくる。空き地や廃墟同然のビル。サウスブロンクスみたいな街路。あふれる戦後感をたんのうしよう。
『ワイルドジャンボ』(しかしこのタイトル……!)は藤田敏八監督なのでだいぶ「映画」っぽい仕上がりで、前半は東京湾岸エリアでのロケのようだ。勝鬨橋もちらっと写るし、メインはどうだろう、多分13号埋め立て地じゃないだろうか。つまり今のお台場だ。造成されて、土砂運搬用の道路だけがあり、荒野の中に現場建物らしい小屋がある。チープでどこか非現実的なこの映画にはぴったりだ。

天才マックスの世界

<予告編>
これ見たのにすっかり忘れてたな....主人公はわりとお坊ちゃんな高校に通う、あまりリッチじゃない家の子。学業はてんでダメで、その代わり無数の校内クラブの部長だ。実業家である同級生の父親(ビル・マーレイ)は、妙に彼に共感して、年の離れた友人になる。マックスは校内の幼年部で教える若い先生に恋をする....このマックス君的キャラクターって何なんだろう。ある種の、世界に居心地の悪さを感じる人たちの思いというか、あり方をコメディの主人公に仕上げている。
そして....すまん、あんまりよく覚えていない。そんなに印象に残らなかったのだ。ラストはマックス君が舞台劇を演出して父兄や先生の前で上映する。その後『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』でも『ライフ・アクアティック』でも主人公たちの居場所をわざと舞台セット風に見せていたウェス・アンダーソンだけど、ここでは舞台そのものとしてシーンを作っていた。