ゴモラ


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シティ・オブ・ゴッド』見た人も多いだろう。クラシック級といってもいい、現代ブラジル映画の代表作の一つ。リオのファベーラ(貧民街)の少年ギャングたちの抗争を、実話ベースででも重いドキュメンタリーじゃなく、無茶苦茶いいリズムと映像で見せた2002年の作品だ。

ゴモラ』は、「ナポリシティ・オブ・ゴッド」といいたくなる。舞台になるナポリ郊外も『シティ』のファベーラも先進国(といってもいい)国の中にある第三世界だ。その街で社会そのものと完全に入り交じって根を張ったアンダーワールドの世界。ここでは子供も保護され大事に育てられる存在じゃない。小さな労働力だ。犯罪組織にとってね。そして子供たちは、身近で一番パワーを見せつけるギャングたちをとうぜんロールモデルにするだろう。そんな現実、カモッラと呼ばれる犯罪組織に支配されるナポリを取材したノンフィクションが映画の原作だ。

『シティ』と違うところは、この映画の撮り方が、ポップでもスタイリッシュでもないということだ。舞台になる巨大な団地は薄汚いし、産廃処理場はたんに荒涼とそこに広がる。何よりギャングたちの中にスタイリッシュなやつが一人もいない。ギャング映画としては異色だよね。映画としての立ち位置なんだろう。ギャングをヒロイックに描くわけにはいかないのだ。原作者はこのノンフィクションを出版したことで24時間警護が必要な立場になった。映画もその姿勢を受け継いでいるはずだ。

だから映画はひたすらにやるせなく、庶民の誰も幸福にしない「彼らのいる世界」を描く。画面に現れるのは組織の末端にいる連中と、そのプレッシャーを陰に陽に受けている市民だけだ。超高級スーツを着て女をはべらし、カスタムの車で遊びに出るようなゴージャスなギャングはちらりとも映らない。幹部らしい男もいるけれど、底辺の小組織のボス程度、たいした金を持っていそうにもなくて、着ている物も薄汚く、体にも締まりがない。そう、組織の構成員たちはいやにデブが多いのだ。

異様に巨大なデブ、というある種の異形がその種の組織にときどきいるのは日本でも目にすることだ。でも見るからに強そうなマッチョはいないし、いかにも切れそうな殺し屋風のスリムな男も出てこない。裸や半裸の男はちょくちょく出てくるくせにね。『イースタン・プロミス』のヴィゴ・モーテンセンみたいな存在はゼロだ。痩せているのは、犯罪組織に憧れる少年たちくらい。画面のなかの肉体がそれだけで組織の性質を物語っている。このどんよりしたクライムストーリーの基調になるトーンだ。

ガンファイトのシーンはけっこうある。でもそれも単純に相手を殺すためだけに近くから大量の弾を撃ち込むやり方で、クライムムービーの作り手たちが工夫してきたようなスタイリッシュなシーンはまったくない。死骸は彼らが扱い慣れている重機で片付けられたりする。暴力もひたすらに格好悪いのだ。カタルシスのある暴力(たとえば我慢に我慢を重ねてついに…的な)なんてもちろんない。いやな感じがするだけだ。ちなみに、なぜかギャングも市民もだれもイタリア車に乗ってないのがふしぎだった。美しい南イタリアの街並みが映ることもない。土地すらもあまり人々に愛されてきたことが無いような、そんな場所ばかりなのだ。

物語の中心になるのが巨大な集合住宅。三角形のシルエットと荒廃した巨大施設特有のなんともいえない瘴気がいやでも印象にのこる。ここ「Vele-di Scampia」という名前。「スカンピアの帆」という意味だ。三角形のシルエットを帆に見立てたんだろう。で、この団地「モダニズム住宅計画の失敗」としては結構有名なケースなのだ。
このタイプで有名なのは「プルーイット・アイゴー(Pruitte-Igoe)」というアメリカの団地計画だ。劣悪な住環境をなんとかしようよ、ということでセントルイス郊外のスラム跡に1956年に完成した。ところができてみると住人は思ったほど集まらず、誰でも出入りできるオープンスペースは微妙なたまり場になって、やがて「悪のスラム」めいた場所に逆戻りしてしまい、あきらめた当局によってわずか16年後の1972年に爆破された。

「Vele di Scampia」も似たような運命をたどっている。ナポリ郊外に1975年頃までに作られ、とうぜんコルビュジェ的な<高層建築+広い緑ゆたかなオープンスペース+便利な交通機能=コミュニティの生成>を期待してデザインされた。でも結果的には、貧しい住民たちに不法占拠された状態で完全にゲットー化しているそうだ。不幸だったのは完成直後の1980年頃にナポリは大きな地震に見舞われて、家を失った人達が多かった。だから当局も占拠を黙認したそうだ。おまけに完成後10年以上警察もいなかったっていうんだから…結果は目に見えているでしょう。犯罪組織の拠点になって、広場は薬物取引の青空市場になり、道路は違法ストリートレースの舞台になっているそうだ。九龍城砦と少しにているね。ただ成り立ちは逆だ。九龍城砦はまず高密度スラムが形成されて、それがだんだんと高層化したのだ。

縦横の回廊は見通しの悪い暗がりだらけの路地となり、一階のピロティは駐車場で人の気配がない。屋上や高層階のベランダには組織の下っ端が見張りとしてうろうろしている。ここでぶっとおしの撮影ができたということは、よほどきっちりと話を通したんだろうね。さっき書いたみたいに原作者が命を狙われているような内幕ものでよくそれができたなとも思う。『シティ・オブ・ゴッド』も実際のファベーラの住人を俳優として起用しているというし、この映画も撮影場所だけじゃなく出演者にも地元の関係者がけっこういる。こういうタイプの映画制作者ってすごいなと思う。単なる表現者の力とは少し違うよね。

ドキュメンタリーを撮るべくカメラ一つで突入していくジャーナリスティックな制作者ならともかく、フィクションのエンターティメントだもんなあ。これほど危険じゃないかもしれないけど甲府周辺でほとんど非俳優を使って撮った『サウダージ』もそういうすごみがある。ちなみにこの映画にはプロの俳優ももちろん出演していて、産業廃棄物会社の社長(トニ・セルヴィッロ)は『湖のほとりで』で刑事役をやっていた俳優だ。