カラフル


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ここで丹念に描かれている世界。母親がうざい、汚らしいものに見えて、許せなく、無性に辛くあたる中3男子。ま、たしかにそういう時期はあったよ。それこそ中3の時そうだった。だからこの感じは「あったね、たしかに」の世界ではある。今見てどっぷり共感するかといわれると、ぼくの場合はそうでもなかったけど。ドラマ的に仕方ないとはいえ、ちょっと母へのあたりがきつすぎるきらいはあるし(もちろん監督はそれも承知でそうしている)。現役の中3が見て共感するのか、その辺はわからない。どちらかというとノスタルジーの中の少年期を反芻するタイプの映画なのかもしれない。でも、「中3のちいさな世界を俯瞰して見る」タイプじゃなくて、「中3のちいさな世界」にできるだけ視点を持って行って中から見るようにはしている。
世界とどうにも折り合いがつかずに、とりあえず母親に攻撃的になるしかできない少年。その世界との関係がかわっていく過程を徹底して食べ物で表現した映画だ。ほんとに徹底して。人間関係はすべて食べ物をあげること、何をあげるか、そして受け取ってどれだけ食べるか、ということで表現される。母子も父子も男友達も女友達も。母親の立場にある人からすれば、食事の扱われ方なんか、経験があるとひりひりする部分はあるかもしれない。
例によってデフォルメのないリアルで叙情的な背景の前でシンプルな造形のキャラクターの日常描写を見る、いまや一つのジャンルになった感のある映画だ。背景は全部手描きしていると監督はいうけれど、写真画像にフィルターかけて、せいぜい多少上から描いたくらいの絵もあったと思う。物語の舞台の二子玉川はぼくにとっては子供の頃からなじみがふかい場所で、たしかにリアルに描かれた景色には「あるある」感があって共感度高かった。等々力渓谷とか田園都市線の線路脇の坂とか多摩川の堤防の景色とかね。秋から冬にかけてのお話で、季節感とかよく出ていて、なんとなく詰め襟制服の下にセーターを着込む季節の町の感じを、やけにノスタルジックに思い出した。
それにしてもキャラクターはあいかわらずぺたっとしたシンプルなセルアニメ風で、背景だけもはやマニエリスティックにリアルに描き込むというこのバランス。ジブリ以降のこの世界はなんとなく受入れられているけど、見慣れていなければじつはそれほど自然じゃないと思う。たとえば『戦場でワルツを』とはちがって、シンプルなだけじゃなく人物プロポーションだってかなりデフォルメしてるわけだ。それでも日本人観客はすんなり違和感なく見られるというのはなぜだろう。うーん・・・なんというか人の見立て力というのは、人形(ひとがた)にはとくに強く作用するのかもしれないね。つまり「人」だという図的な記号があればリアルさが低くても観客がじゅうぶんに自分に引き寄せて共感してくれる、それに対して周りの環境描写は、よりリアルな方が共感度が高いということ…ホントかな。でも、生まれてすぐの赤ちゃんに、◯に点々二つ、みたいな極限にシンプルにした顔風の記号をみせると、その記号だけはちゃんと反応するという。それこそピクサーアニメは完全にそういう効果を知り尽くしているわけで、その極北が『ウォーリー』ということだ。

声優は女性役はそれぞれ良かった気がする。俳優を当てるとかならずどこからか批判が起こるけれど、専業の声優はやっぱりアニメ的声のデフォルメを訓練してるから、そこも記号っぽくなってしまうのが避けられない。母親役の麻生久美子は上手に歳をとった声になっていたし、泣く芝居も声を張らず押さえた泣き方で場面によく合ってる。声優が当てたらもっとパターンにはまった派手な泣きになってしまうんじゃないだろうか。あとは宮崎あおい。さすがですね。挙動不審系の中学生女子の喋りの再現がぴたっとはまっている。いわれないとあの女優顔はまったく浮かんでこない。もう一人の少女役の南明奈も特別に上手いかどうかはともかく色っぽい中学生らしさはあったんじゃないの。