ヤング≒アダルト


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コメディのつもりで見始めた。つくりはたしかにそうだ。要所にくすっというシーンがあるし、編集のリズムも音楽の入れ方もアッパーな演出だ。でもだな。いや、このヒリヒリ感はなんだ。これコメディじゃない…笑ってられないでしょう。ていうか泣ける。『マイレージ・マイライフ』のジェイソン・ライトマン監督。
ストーリーティーン向けのヤングアダルト小説のゴーストライター、メイビス37歳。ミネアポリスで一人暮らしする彼女のところに地元の元カレからなぜか「子供が生まれたからパーティーするよ!」という招待メールが届く。一気に盛り上がって田舎町に帰るメイビス。さっそく元カレと飲もうとすると、その前に高校でいじめられていた地味な同級生マットに会う。高校時代クイーンだった彼女が気にもかけていなかった相手だけど、元カレにアプローチしつつもマットには妙に心を開いて話せることに気がついて、毎晩飲むようになる。本番のパーティーにも勝負服で参戦するメイビスだが…
とにかくひたすらに痛い。主人公を、栄光の17歳時代をひきずったままの、あきらかにちょっとおかしい認識におちいった状態にして、勘違いしたむなしい努力をさせる。主人公以外全員がそれに気がついているという構図だ。なんでここまで…という徹底した痛さだ。観客に「ああ、さすがのメイビスもここはまともだったのね」と一息つかせる部分が一カ所もない。とにかくラストまで勘違いで突っ走るのだ。地元の町の人は、だれも突っ込まない。遠巻きに、当惑したように、異物をみるように眺めるだけだ。「誰か言ってやってよ!」という映画なのだ。観客を代弁して唯一それを言うのがマットの役目。でも、そのマットも高校時代のいじめ=暴力が原因で足が不自由になり世間から閉じこもって大人になりきることを拒否している。
でも、じつは地元で家庭を持ち、立派な大人になっているはずの町の人々も「集団としての村人」的なもの以上じゃないし、メイビスが熱烈にアプローチする元カレのバディも、いかにも元ヤンチャが丸くなった系のパパでしかない。つまりこの映画はメイビスが大人になれないことを突っ込む映画のようでいて、じゃあどんな大人が理想なんだ?といったときにロールモデルがひとりも出てこない話なのだ。そこがある種の救いでもある。「なんであたしはちゃんとした大人になれないんだろう」と泣くメイビスに「ここにいる大人だってみんなクソ野郎よ」と旧友がいうように、誰も確かなロールモデルなんてもっていないんだ、だからあたしも(とりあえず痛すぎた部分は捨てて)前に進むしかないのよね、という救いがメイビスに用意されているのだ。
それをシンボライズするのが愛車の赤いミニで、シャーリーズ・セロンの出演作『ミニミニ大作戦』つながりなのは有名な話すぎるから置いとくとして、最初から彼女のどことなくくすんでしまった人生を象徴するかのようにホコリまみれなのだ。それでも元気よく地元に帰り、マットと飲み過ぎてそのまま運転してホテルに帰り思い切りフロントをぶつけてしまう。地元で何度も脳天をぶん殴られるような目にあって「アウッ」となっているメイビスそのものだ。途中で実家に置いてあった昔の自分の車に乗り換えるところは、その時代にまで感覚が退行してしまっているメイビスの姿で、しばらく乗られていなかったはずのミニは、なぜか微妙に損傷がすすんでいる。それでもボロボロになったミニは、最後の朝にメイビスがリモコンキーを押せばチカチカとフラッシュライトを点滅させて立ち上がり、来る時よりはだいぶ打ちのめされつつも元気に走って行く。

メイビスは、元カレとあう3回のデートのために毎回イメージを変えつつキメキメでスタイリングしていく。それがまた意地悪い。だってキメまくって行く店はおっさんしかいないロードサイドのスポーツバーだったり、ど素人のバンドが身内相手に演奏するライブだったり、単なるホームパーティだったりで、男も女もみんないかにもな感じでゆるめなシルエットの格好をしている。元カレ自体何の主張もないただの保温のためみたいな服であらわれる。そこに隙のない格好で一人いるわけだ。女性の観客はどう見てるんだろうか。「やっぱ痛いわ」なのか「いや、でもわかる。それが武装なんだから」なのか「それはさておき参考になる」なのか…。
で、僕が思ったのはこの社会の、いわゆるCMNF的常識だ。これって基本エロ用語なんだろうけど、このwikiを読むとけっこう考えさせられる。僕たちのいる社会、女性はノーマルな状況でも、「勝負」っぽいシチュエーションではよけいに、男より肌をだすのがふつうのこととして受入れられている。スポーツでもスイム以外そう…ってよく考えるとあれはホント意味ないよなー。陸上とか体操とかテニスとかさ。100%コマーシャルな要請だよね。 
そりゃ男からすれば大歓迎ですともさ。CMNFウェルカムだ。でもあらゆる文化でそれがふつうなわけじゃない。戒律のきびしいイスラムはおいといても、そもそも日本だってそうでしょう。有名な話に、明治時代の市電に「乗客はみだりに太ももを出すこと禁ず」的なはり紙があったそうだ。これは<あずみ>みたいな女子がいた話じゃなくて、肉体労働者(もちろん男のね)が下半身ふんどしのみで乗ってくるのをやめなさい、と言っているのだ。どこを見せてどこを隠すのか、じゃあ男はどこまで見せるのがふつうなのか、とにかく文化ごとにそんなコードはちがっている。で、現代西欧社会的価値観ではCMNFがノーマルなわけだ。
だからメイビスもそのコードにしたがって勝負どころではけっこう大胆なドレスを着ていったり、エレガント系のスタイルでもミニスカートでいったりする。ちゃんと「勝負」が成立していればその格好も意味を持つはずだ。でも勝負そのものが成立していないのだ。そこのずれがこの話の痛さでもある。田舎ではコード自体も微妙にちがっているんだろう。舞台になっている、設定上はミネアポリス近郊の町は、季節も夏じゃないしどっちかというとわりと寒そうなのだ。肌の露出は肉体に主張があれば何かの誇示にもなるけれど、同時に弱さでもあり、極端な場合はソフトな自傷的行為にすらなりうる。そんなことも見ていて思った。