悪い奴ほどよく眠る


<予告編>
黒澤明1960年の作品。全盛期なんていうとあれだけど、毎年のようにクラシックになるような作品を連発していたころだ。黒澤が東宝だけの資金で撮るんじゃなく、黒澤プロダクションを設立して共同制作する体勢になった第1作でもある。物語は、復讐に燃える主人公が犯罪こみで思いを遂げようとする一種のピカレスクロマンだ。
ストーリー:未利用土地開発公団という架空の公団。幹部は建設会社から多額のリベートを受け取り、それを有力政治家に回している。副総裁(森雅之)の一人娘がある男と結婚することになり、盛大で奇妙な結婚披露宴が開かれる。じつは男は過去の疑獄事件に連座して自殺した会社員の息子だった。復讐する相手の身内に入り込んだ男、西(三船敏郎)は下っ端からつぶしていく。けれど復讐のためだけに結婚した相手、佳子(香山京子)にだんだんと思いが移っていることに西は苦悩する。公団側も彼の正体を知りつつあった。西たちはついに核心を知る相手に到達し、証拠を押さえにかかる…
前に書いた『黒い十人の女』にくらべると1年前のこの作品は戦争の影が濃い。主人公西は盟友坂倉(加藤武)と戦後の闇物資のあつかいでビジネスを起こしていった。彼らのアジトは東京都下に残っている(ことになっている)巨大な工場の廃墟だ。実際のロケ地は愛知県豊川市造幣局の跡らしいけれど、そんな設定にそれなりにリアリティがあったんだろう。
さてこの映画、まずは三船の風貌におどろけといいたい。黒澤映画だと髭づらにくたくたの着物のサムライ・スタイルがまず浮かぶけれど、この映画ではつるっとした顔に髪をなでつけ、黒い眼鏡をかけていつもスーツに身を包んでいる。こうなると逆に三船の常人じゃない俳優顔がいやでもきわだってきてしまうのだ。たしかに映画全盛期には日本でも寸分のすきもなく顔が整っていたり、異様な重量感があったりという役者はいたけれど、三船のこの顔力というか眼鏡がまったく眼力をカバーできていない感じというか、ほとんどクラーク・ケント的になってしまっている。体つきも立派でスーツの着こなしがハリウッドなみだ。
経済界の悪役になりきる森雅之も老けメイクで大物感を十分に発散しているが、日本映画屈指の名優といわれる森でも三船と比べると常人に近く見えてしまうのだ。つくづく他にいない役者だったんだなあと思うね。ひょっとするともっと屈折した感じの役者の方が苦い復讐物語の雰囲気はでたかもしれない。年代は違うけれど仲代達矢でも山崎努でも緒形拳でもありえる。ただTVのリメイク版では村上弘明が西役だ。この映画での三船は復讐のために良心を捨てたにしてはあまりに真っ直ぐな心情のベビーフェイス的存在感で、村上はそのあたりの雰囲気をとって選ばれたのかもしれない。ちなみに盟友の加藤武もなかなかいい。こちらはかつての日本人のモンゴリアン・フェイスを完璧にスクリーンに映し出している。

この時期、戦後にいわゆる疑獄事件というのはけっこうあった。有名なところだと1948年の昭和電工疑獄では官僚だった当時の福田赳夫(後の首相ね)も逮捕されているし、1954年には大疑獄事件として有名な造船疑獄で佐藤栄作(後の首相ね)が逮捕寸前までいった。架空とはいえ「公団」を政治家汚職のトンネルに設定するなんていうのもなかなかな設定だ。そんな社会派そのものの映画なんだけど、黒澤らしいのは映像的にどうしてもふつうの社会派を越えたドラマチックなことになっていく。
たとえば疑惑の矢面に立たされた下級官僚が自殺しようとするシーン。官僚は活火山の山頂までスーツで登っていき、火口に身を投げようとするところを同じスーツ姿の西に止められて強引に一味にされる。山頂までスーツに革靴という行動力が高度成長期っぽくて素敵だけど、この火口がまた豪快なまで噴煙をふきあげ、木の一本も生えず、黒々とした新鮮な火山岩が地表をおおうダイナミックすぎる舞台なのだ。サスペンスドラマのラストで東尋坊みたいな絶壁にいくことはあっても、活火山の火口に身を投げるのはなかなかない。「男性的」っていう言葉がぴったりだ。かなりなパワーが残っていないとそれはできんぞ。
そのときの官僚(藤原釜足)のメイクや、西に追い詰められて発狂する公団の課長(西村晃)のメイクも黒澤らしくていい。後の『乱』でも見られるような、精神状態を非現実的なまでに強調するメイクで、目の周りが黒ずみ、肌は白っぽい異様な面相になっている。それから監禁された部長(志村喬)が数日で爆発コントみたいな真っ黒な顔にぶっとびヘアーになっているあたりも見逃せない。
物語の印象は…巨匠といえども、スケールの大きな疑獄をエンターティメントにするのはやりにくかったかもしれないっていうことかなぁ。『ゴーストライター』でも書いたけれど、政治陰謀モノはむずかしい。と、一観客として思う。実際問題、映画にあるみたいな、疑獄事件が表面化すると関係者が「自殺」や「謎の事故死」をとげて収束してしまう事件、現代でもさんざん見せられているでしょう? バブル破裂のころは金融機関でやたらと多かった。今でも政治の世界では、「自殺の形をとった関係者の消滅」はトラブル処理のオプションのひとつとしてふつうにあるんだろうと思うくらいだ。そういうリアルの事件を目にした時のえぐさからすると、フィクションではどうしても、の思いが抜けない。
この映画、表に出る悪役は贈賄する企業人どまりで、いわゆる真の「巨悪」は電話相手とかでほぼ暗示されるだけだ。現実の悪徳政治家の方が、たいていの俳優の濃さに勝ってるからね。えぐいはずの暴力の行使の場面も省略される。ようするにそこ見せちゃうと作り物感がどうしても強まる、だから現実の事件と同じように事実があったことだけ知らせてどんな感じかは想像させるのだ。それでも公団の副総裁のような比較的お行儀のいいはずのビジネスマンが裏の暴力組織を自在に使っている描写とか違和感もあった。社会派ドラマではあっても、現実社会のえぐさをそのまま映画的魅力にするのはほとほとむずかしい。この映画も西の思いと副総裁の家族を中心にすえた「個」の物語に収束していかざるをえないのだ。