プレイタイム


見ればみるほど不思議な、伝説のコメディ。パリの空港と街中のある一昼夜をえがく。前半は無機質な現代都市の中でひとびとが動き回り、主人公ユロ(タチ)はところどころで顔を出してうろうろする。後半は本日開店のゴージャスなナイトクラブが舞台。開店時間になっても内装がおわらずにばたばたしているところへ次から次へと客がやってきて、混乱おかまいなしにバンドが演奏をはじめると客たちがフロアで乱舞する。ユロ氏もまぎれこんで大騒動に・・という展開。この映画、映画館かできるだけ大画面の精細なモニターで見るのがおすすめだ。画面の情報量が、完全に大画面仕様になっているからだ。ちなみにタチは先にできていた脚本をもう一つもっていた。けれどそれはお蔵入りになり、彼の死後にアニメ化された。それが『イリュージョニスト』。
この映画、『ぼくの伯父さん』以上にまったくストーリーはない、エピソードのコラージュだ。ユロも群像劇のひとりにすぎない。でもその全員にタチが細かいうごきの演技をつけているから、分身の術をつかっているみたいなもの。その分身がそれぞれ小芝居をするシーンを移動カメラの長回しで一気に撮ったりもする。1シーンに数十人が映り込むときもある。なんど撮り直したか想像するだけでも「うわぁー」となる。
この映画といえば「Tativille(タチ・シティ)」と呼ばれた巨大なオープンセットがシンボルだ。パリらしくない無国籍な現代都市の風景をまるごと作ったこのセットは、林立する高層ビルとアスファルトの街路と歩道、走り抜ける車とバス、そのすべてを実在の町みたいな映像のなかにおさめることを可能にしている。このセット、一説では2500m2だというんだけどもっと広い気がする。50×50mってたいした広さじゃない。もし2500m2のなかであの遠近感を出していたとしたらさすが映画のマジックだ。
まあ広さの話はいいんだけど、とにかくこの映画でも「モダナイズされた都市の非人間性にほんろうされるユロ氏」パターンが繰り返されるのだが、ここまでくるとタチがこの世界が好きとしか思えなくなってくる。空港、オフィスビル、アパート。どれも一見ステンレスの壁面のようなモノトーンでメタリックな、これ以上ないミニマルなデザインで徹底されている。ガラスの窓や壁の透明感はいろんな小ネタに使われて、窓への映り込みもちょっと偏執的なくらい映像ネタになる。ちなみにメタリックな壁は本物じゃなく金属板の写真をシートにして貼っているし、街路や建物の中にいる人物のなかには人の写真をボードにはったハリボテが混じる。知っていて見るとときどき画面でもわかるのがおかしい。タチおなじみの「変な音を立てる妙なメカ」ネタももれなくある。このセットで大借金をつくったといわれるタチだけど、もう少し待てればデファンス地区ができたのに・・・ そんなモノトーンな昼の世界から、ナイトクラブは一転してカオスになる。店内はモダンデザイン。建築家もまだ現場にいる。そこが大騒ぎのなかでちょっとずつ壊れていくのだ。夜通しの騒ぎのあと朝を迎えると、モノトーンだった都市が彩りに満ちたカラフルな街に変貌している。あざやかな原色が画面のあちこちでにぎやかにうごきまわる。タチらしいなーと思うのは、彩りが工事機械や看板、トラックなど産業系のアイテムなのだ。都市のいろどり=産業系の群舞シーンだ。
っていうかここだけで2500m2くらいあるだろ
さてこの映画、フランス人タチのアメリカ人への愛憎いりまじった視線がもうひとつのテーマになっている。主人公はパリにやってきたアメリカ人たちともいえる。団体旅行の女性観光客や見本市会場に出店している小太りでエネルギッシュなビジネスマン。その描き方はやぼったいお上りさんだ。みんな夜になると例のナイトクラブにやってくるんだけど、そのシーンではっきりとわかる。クラブの客はシックな黒服のカップルだけなのに、団体客はドレスアップしていてもなんだかチープで頭には花盛りの帽子をかぶり、田舎町の結婚パーティーに出るみたいなかっこうだ。ビジネスマンは、空気をよまないうざいおっさんそのもので、店が混乱してくると勝手に店内の一角を仕切って騒々しい宴会場に変えてしまう。そのなかでひとりの美人だけがいい役でユロ氏に気に入られる、ありがちなあつかいでしょうこういうの。アメリカ人がみたらいやでも感じるだろう・・・とはいっても「ださいねこいつら」とただ切り捨ててるわけでもない。ナイトクラブの「気取った紳士淑女の世界に風穴を開けて庶民の混沌をもちこむ」ユロとアメリカ人は同じ立場でもあるのだ。店に入り込んだユロは人懐っこいアメリカ人ビジネスマンに肩をだかれてテーブルに招かれる。そこでどんちゃん騒ぎをしはじめたのをきっかけに珍妙な客たちがふらふら店に入り込んでくるのだ。観光客たちも素直にパリを楽しんでいるのを描写している。
アメリカのサイレント喜劇を自分の芸のルーツにしてるタチは、アメリカ文化がけっして嫌いじゃないんだろうと思うし、ゴダールの『勝手にしやがれ』とかセルジュ・ゲーンズブールにも感じるけれど、戦後しばらくのフランス文化のなかで、今思うよりずっと濃く、生なかたちでアメリカ文化は目立っていたように見える。ジャズだってそうだ。よくアメリカのジャズマンが言うでしょう。本国ではカス扱いなのにヨーロッパツアーをすると大歓迎で貴族みたいにもてなされたよ、って。この映画でもナイトクラブのバンドはジャズとラテンで、いいラウンジ感をかもしだす。日本もそうだけど、どわーっと入ってきたアメリカ文化に先端の文化人はいやおうなくそまったし、アメリカ色から脱して「先端」でいられるようになるにはやっぱり何十年かかかったということじゃない? そのアンビバレンツがここにも見える気がする。

ぼくの伯父さん


タチの「伯父さん」キャラはひとつの定番で、1958年のこの作品のまえに1952年に『ぼくの伯父さんの休暇』を撮っている。伯父さんという存在のいい具合っぷりは古今の小説や映画やドラマが証明している。このブログでも小津安二郎の「伯父ー姪関係」について書いた。子供にとって「責任のない大人」が伯父さんで、たいていの親が全面的に発揮できない大人の遊びの部分を体現しているのだ。そういえばタチを敬愛していたという渥美清の『寅さん』にも「ぼくの伯父さん」という一作がある。とうぜん意識してつけたタイトルだろう。この映画のタチもその典型で、ひとことでいってダメ伯父さんの役。
ストーリーラインにはたいした意味はなく、エピソードごとの笑いを楽しんでいるうちになんとなくエンディングにいたる。タチは古き良き、産業社会以前の浮遊した民みたいなのを体現する存在で、旧市街の古いアパルトマンにすみ、陽気でさわがしい近所の人にかこまれ、古いモペットに乗って甥っ子のめんどうを見にやってくる。妹夫婦はこれと対比して描かれ、彼らはハイパーモダンの象徴みたいな家に住んでいる。幾何学的な広い道が交差する新市街で、彼らの家は庭までミニマリスト的な幾何学形態の庭だし、家の中もやたらと機械化されていて、妻はホコリをはらうのとボタンを押すのが主な仕事だ。その夫はビニールホース製造会社の社長。ここも機械化されている。こんなモダナイズされた、スクエアな人々の暮らしを皮肉って笑うのがこの映画のスタンスなんだけど、どうもタチ本人はこのモダンな世界が嫌いじゃなさそうなのが面白いところなのだ。だいたい、妹夫婦の家Villa Arpelの作り込みなんかけっこうすごいのよ。バウハウスやデ・スティルあたりの草創期のモダンデザインみたいで、庭は1920年代の「キュビストの庭」といわれる有名な庭園のモチーフが色濃くみえる。 ちなみにこの庭のある家の主は、コクトー、ダリ、ブニュエルマン・レイなど、その時代のシュールリアリズム系の最先端アーチストたちのパトロンだった女性。タチがこの世界につながりや、すくなくとも関心はあったのか、それとも単に美術監督が引用しただけか・・・
こっちが映画の家
これがキュビストの庭
それ以外でも「人間性のない」はずのモダナイズされた世界の描写がやけに格好いいのだ。映されるものすべてをグレイッシュに統一して、カラーなのにモノクロめいた画面におさえる。3車線の道路を車が走るシーンは、車のCMにそのまま使いたくなるような、流れるような車の群舞みたいな映像だ。ちなみにそんなシーンに出てくる車はおなじみのシトロエンルノーみたいな可愛い車じゃない。フランス車でいえばシムカ(わりと保守的なセダンで、会社自体1970年代に消えてしまった)。妹夫婦が乗っているのはアメリカのオールズモビルSuper88、そのあとうれしそうに買い替えた車がシボレーのベルエア、ほかにも大柄なアメ車の登場がおおい(まあフランスというのは伝統的に大型高級車のラインが弱くて、えてしてその部分は外国車におさえられてたんだけど)。ギャグの舞台になる工場もほこりっぽい雑然とした場所じゃなく、外からは何も分からないようなミニマルデザインのビル。だいたい、オープニングのクレジットがじつにしゃれてるのだ。この出方もモダンな工業時代的な雰囲気。このセンス、アメリカ文化への感覚は、次の『プレイタイム』で炸裂することになる。あと、彼の遺作がアニメ化された名作『イリュージョニスト』も見るよろし。