ザ・ロイヤル・テネンバウムス




ウェス・アンダーソン2001年作品。英エンパイア誌の「The 500 greatest movies of all time」でも意外に上位に来ていておどろいた。
ちなみにこのランキング、写真・コメント付きで力がはいっているわりにものすごく見にくい。紹介記事のほうがよっぽど見やすいという悲しいことになっている。あまつさえなぜか「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズが3つもBEST100に入っていたりして微妙な部分はあるのだけれど、とにかくロイヤル・テネンバウムスはなかなかの名作扱いである。そもそも私が最近までしらなかっただけなんだけどね。
この映画、ハイパーエゴイスティックな父にスポイルされきった気の毒な3人の元天才の子どもたち(といっても30過ぎ)がよわよわしく立ち直っていく話ともいえるんだが、この「よわよわしい私」的アメリカ映画っていうのはごくたまに出てくる。おぼえているところでは『バッファロー66』なんかそんなイメージだ。
アメリカ映画はどうしてもポジティブシンキングで強さを見せないと観客が付いてこないのか、なかなかこういう全面的に弱いひとびとはメインで登場しない。どこかで力強く立ち直ってみたり意外な能力を見せてみたり、そっち方向に行くのがほとんどだ。アメリカ文化では弱さは唾棄されるべきものなのかもしれん。
それにしてもこの映画でも最後まで父はエゴイスティックに生きとおし、最後まで子供たちはその周辺をくるくる回るわけだけど、こういう存在感のある父がいて、それをどう越えるか、とかどう和解するか、というようなストーリーはアメリカ映画ではそれなりに多い。『スターウォーズ』はいうまでもないが、意外なところでは『チャーリーとチョコレート工場』も原作にはありもしない「父による承認」みたいなよけいなシーンが入っていた。やっぱり父性原理が強力なのか?
こういうの、いまや日本ではまれなような気がするがどうだろう。昔は充分あった。ようするに『巨人の星』。ドラマで言えば『寺内貫太郎一家』なんかもあった。漫画でいうと『美味しんぼ』。これはいまだに続いている数少ない例だ。ようするに『東京タワー』なんですね今は。母なんですよ。強かったり中心にいたり、まわりを引きずり回したりは。なんでか分からないが、ひとつは面倒なストーリーを作らなくても「泣き」に持っていきやすいからかもしれん。

それはそうとグウィネス・パルトロウはいい。これと似た映画に、ナターシャ・キンスキーが熊のかぶりものに入る『ホテル・ニューハンプシャー』があったが、ある意味この二人、似た雰囲気だ。地味なメイクにずっと暗い顔をしているグウィネスだけれど、監督が足フェチなのか、足だけはいい感じにねちっこく映されている。
最後に近いところで映画オタクの監督ならではの超ロングシークエンスが出てくる。ただ1カットが長いだけじゃなく、カメラが移動し、パンしながら全出演者を順に映して行き、しかもそれぞれの芝居が全部次につながっているというどうにもトリッキーなシーンなのだ。まさかデジタルでつないだなんて言わないよね。1カットで撮っていたとしたらさぞかし緊張感の高い撮影だっただろう。1人ミスったら出演者全員に怒られる。このシークエンス自体にそれほど重要な意味はないような気がするが、一種の大団円シーンとしてはなかなか効果的だった。

それにしても語られていることは、父と、父にスポイルされた子供たちの和解、みたいなわりあいしっとりした話なんだけど、画面の中の細かい遊びやとっぴな設定や、今や気のきいた映像作家ならだれでも使いたくなる映画以外から引用した色んな語り口調のミックスなど、とにかくストレートにお話をかたらないためのあらゆるテクニックで固められている映画だ。
いい話をストレートに語るわけには行かない、そういうある種の含羞は「商品」じゃない「作品」らしさなのかな、なんてすこし好感をもってしまうところもある。

結論。 『善兵衛で共感の声!!』