メイキング・オブ・モータウン

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<公式>

モータウン・レコーズ。1959年設立のデトロイト発祥のレコード会社。最盛期、1960年代にリアルタイムではまった人は、今は70歳以上だ。そのころ日本でブラックミュージックを聴き込んでいたのは、米軍基地の近くに住んで、FEN(今のAFN。米軍向けの放送網)を聴きまくっていたり、基地の中にコネがあって基地の売店のレコードを買えたりした人たちとかだろう。

たいていの日本の音楽ファンは、モータウンが最盛期を過ぎてから、スティービー・ワンダーとかライオネル・リッチーとかBOYZ ll MENとかエリカ・バドゥとかそれぞれの時代のミュージシャンを個別に聴いていて、レーベル自体の存在感はうすくなっていたと思う。でもその名前が忘れられていたかというとそうでもなかった。

60年代の名曲は常にだれかにカバーされて、映画の中で歌われたり、CMで流れたり、リバイバルでヒットしたりして、オリジナルを聴かなくてもお馴染みのメロディーになっていた。ぼくが出会ったのはまだブラックミュージックを聴き出す前、Heat WaveとかYou can't hurry loveとかDancing in the streetとか、stop in the name of loveとかの頃だ。

ザ・ジャムフィル・コリンズ、ミックジャガー&デビッドボウイ、それに高橋幸宏....完全におっさん語りと化しているが、どれも下手をすると彼らのオリジナルよりキャッチーで、愛嬌のあるメロディーで、割と人気があったんじゃないだろうか。そしてその頃からすでに「伝説のレーベル」として雑誌に、ラジオに取り上げられてきた。

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本作は、その伝説のレコード会社が伝説になるまでの、輝いていた時代を振り返る。50年も前の話だけど、創立者ベリー・ゴーディーJrと盟友スモーキー・ロビンソンは健在で、健在どころか驚くほどに元気で、じつにテンポよく当時の話をまくしたて、しょっちゅう大笑いする。その他インタビューされる当時の作曲家、シンガー、ミュージシャン、スタッフ、結構健在だ。

というのも会社が立ち上がった時代、会社と同じように社員たちもものすごく若かったのだ。10代のスタッフたちがごろごろいた。映画によると、当時のデトロイト自動車産業のおかげで豊かだったせいか、高校での音楽教育もすごく充実していて、クラシックコンサートが聴けたりしていたらしい。教育があまり受けられなかった子たちもストリートで歌のスキルを競い合う。だから音楽の素養がある高卒の若者がどんどん即戦力で入ってきたのだ。

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こんな感じだから映画のトーンは明るい。映画では設立から10年ちょっと、1970年代前半に、マービン・ゲイスティービー・ワンダーたち、すでにオリジナルな音のクリエイターになっていた彼らが創立者ベリー・ゴーディーJrの支配から独立する時期までを描く。スタートから成功するまで、それに創立者と盟友の回顧がメインだから、会社についてはものすごくポジティブに描いている。

モータウンは1970年代以降勢いを失って、そのうちに売却されて独立を失い、メジャーの1レーベルになっていってしまう。今のアーチストを見ても、ぼくが新しいブラックミュージックを大して知らないのもあって、ほとんど聴いたこと無い人ばかりだ。やっぱりクラシックの方が....って思ってしまう。

こんな感じだから、モータウンのクラシックを全然知らない人にとって面白いかどうかは分からない。ベリーとスモーキーのインタビューをメインに、いろんな関係者と、かれらの後に続いたミューシャンたち、ドクター・ドレイ、ジョン・レジェンドジェイミー・フォックスたちのインタビューをテーマ別に細かくカットアップして配置し直して、あいだを当時の映像(と名曲)でつなぐ。

構成はただの時系列じゃなく、システマティックに若いミュージシャンを発掘し、育て、売れる曲を与え、プロモートしていく会社の体制を、そのテーマごとに紹介していく。クリエイティブな組織の作り方のストーリーとしては案外かれらの音楽を知らない人でも面白いかもしれない。

そして当然、1960年代後半の黒人の人権運動やデトロイトの暴動、当時全米ツアーを敢行した彼らが出会った当時の社会の実態のはなしになっていく。その中でヒロイン、ダイアナ・ロスを中心にしたシュープリームスが、〈ブラックミュージック〉の枠を超えてカルチャーアイコンになっていく様子が描かれる。そこに You can't hurry loveがかぶさるシーンではちょっとじーんとしてしまった。

■写真は予告編から引用

 

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散歩する侵略者

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<公式>

ストーリー:鳴海(長澤まさみ)と真治(松田龍平)の夫婦仲は冷え切っていた。行方不明だった真治が帰ってきても鳴海は不機嫌だ。記憶を失い、別人のようになった真治は告げる。「僕は宇宙人なんだ。地球の侵略に来た」....それは本当だった。他にも2人、人間に乗り移って情報収集を続ける宇宙人がいる。フリージャーナリストの桜井(長谷川博己)もそれを知り、彼らと行動を共にするようになる....

黒沢清監督、2017年公開。舞台劇の映画化で、ジャンルでいえばサスペンスSFだ。地球侵略モノ、それも『ボディー・スナッチャー』『ヒドゥン』タイプの、宇宙生命体が人間の体を乗っ取り、乗っ取られた人は外見ではわからない....というストーリー。

本作の宇宙人たちは先遣隊。まずは地球の片隅にある、関東地方の郊外都市に潜入して情報収集を始める。人間に化けて人間たちと交流し、彼らの思考を理解するのだ。そのためにかれらは〈概念〉をあつめる。人間と話して興味を持った概念があると質問攻めにしてそれを具体的にイメージさせてから「それ、もらうよ」といって頂くのだ。副作用があって、頂かれた相手からはその概念が失われてしまう。

つまり、この物語は概念とそれに縛られる人間たちを描く一種の寓話といえる。「家族」を頂かれた相手は急に当の家族によそよそしくなり、所有の「の」を奪われた相手は奇妙に解放され、「仕事」を取られた社長はとつぜんアホになる。このアイディアは途中までなんとなく散発的にも見えるけれど、クライマックスでは、もっとも抽象的だけど大事な概念の受け渡しが物語をしめくくる。

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物語は大きく2つの流れが並行して進む。鳴海と真治のパートは概念をめぐるどちらかというと静の物語。桜井と男女の高校生(を乗っ取った宇宙人)パートは、アクションムービー、潜入作戦とか犯罪者の逃避行モノのトーンだ。女子校生が戦闘能力の高い武闘派で、この辺りの役割の配分は今っぽい。

侵略に気がついた政府の秘密チームはマシンガンを持って追ってくる。いつの間にか世間にも影響が広がって、終盤はパニックムービー的な雰囲気になりつつ、宇宙人の作戦はどうなる?というハラハラや終末的雰囲気まで加わって物語は急速に壮大になっていく。

 

でも意外にも本作、黒沢作品の中でも屈指の笑える映画だ。

鳴海と真治の物語は、「地球侵略の危機」という状況と2人のテンションのずれがおかしみの源泉だ。妻は理由もあって夫に対して常に怒っている。夫(=宇宙人)は人間理解中だからぼんやりしている。松田龍平の感情のつかみどころのない芝居もあって、侵略者らしい攻撃性のかけらも感じられない。だから2人の会話は地球侵略の話をしていても家事分担をめぐる夫婦の言い合いみたいなトーンになる。

一方桜井と2人の宇宙人パートは、黒沢作品にいつもある独特のキッチュさがおかしみの発生源かもしれない。アクションもバトルシーンも、さらにその先も、本当っぽく見せようとしてると思えないのだ。武闘派女子校生の格闘シーンは流石に実写じゃ難しいけれど、何度か出てくる銃撃シーンもじつに軽い。そしてクライマックスに向かう、それなりに派手なシーンも「これ....狙いか!?」と疑念がよぎる嘘っぽさだ。

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黒沢作品は終盤にカタストロフが時々出てくる(『回路』『カリスマ』)。都市が炎に包まれたり破壊されたり。必ず狙ってるかのような作り物感でそれを表現してくる。これは彼独特の好みなんだろうか? 時々わざと使う(本作でも!)車内シーンのリアプロジェクション(車の背後に外部の映像を映写して運転してしている風に見せる)の古めかしい映像のように? 「あなたは今映画を見ているんだよ」と意識させようとしているみたいだ。

監督はストレートにジャンル映画をやるにはあまりに映画的教養がありすぎるのかもしれない。だからどこか批評的な、「この手の映画ってこういうシーン、あるよね」と言ってるかのような距離感を感じてしまうのかも。本作はSFだけど、もっと観念的にとどめておくことも多分できたはずだ。『ガタカ』みたいに、実在の建築や自動車(それも古いもの)を使って未来の風景だと納得させるやり方もある。原作のキモはやっぱり「概念をもらう」という、観念的なところだ。

でも本作はあえて娯楽SF大作が数万倍派手に描くだろうシーンまで省略せずに見せた。作り手は、斜に構えた批評的スタンスなんてとるつもりもなく、正面から娯楽作として勝負したのかもしれない。『スパイの妻』のインタビューで、十分すぎる名声のある監督は「1度でいいからヒット作を撮りたい」と語っていた。残念だけど本作の興行収入は2億も行っていない。でも、ファーストシーンで見せたけれんみたっぷりのカーアクションは「派手にいきますよ!」とたしかに言っている。

 ■写真は予告編からの引用

 

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岸辺の旅

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<予告編>

ストーリー:3年前に夫優介(浅野忠信)が失踪して以来1人で暮らすピアノ教師、瑞希深津絵里)。ある晩ひょっこり帰ってきた優介は瑞希の作った白玉団子を美味しそうに食べ、衝撃の事実を告げる「俺、死んだんだ。体はもう残っていない」。でも2人はちゃんと抱き合える。優介は失踪してから見た美しいものを瑞希にも見せたいという。2人は旅に出た。優介が世話になった人たちのもとをめぐり...

『スパイの妻』からさかのぼって見た。黒沢清監督、2015年公開。湯本香樹美の小説が原作。死者らしくない死者と生者が自然に交流する、すごく静かで淡々とした話だ。感情表現は抑制されて、瑞希はとつぜん現れた優介をほっとしたように迎えるし、彼が死んだことをすっと受け入れ、無駄に泣きわめいたりもしない。

いうまでもなく死者との道行だからハッピーな空気じゃない。見ていると、漠然とこの時間が長くは続かない予感がするだろう。特に物語のルールがなくても、生者の世界にいる死者はかりそめの立場で、いつかはほんらいの自分の世界に行かなくてはいけない...なんとなくそんな気がする。

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死者と生者が触れ合う映画、古いところだと『ゴースト』とか『シックス・センス』とかを思い出す。この2作は伝統的なゴーストの設定、死者たちは実体のある肉体を持って生者と交流することはできない。肉体を持った死者モノは、要するにゾンビとかフランケンシュタインみたいなものが多い。つまりゴーストものと逆に生者と交信できるスピリットがないのだ。例外的なところだとドラマの『アメリカン・ゴッド』に両方持った死者が確かいた。あれは蘇った死者か。

本作では「死者だから」という仕掛けはすごく少ない。優介は瑞希だけじゃなく他の誰から見ても普通の人だ。2人同士でも何か特別な何かはない。食事もふつうにしている。しかもこの世界でくらす死者はどうやら優介だけじゃないのだ。かれらも周りからはわからないくらい自然に人々の中に溶け込んでいる。

ただ、すこしずつ「予感」はしている。2人の旅の日々は、いくつかの出会いのエピソードの連作みたいな作りで、それぞれ違う形で死者と生者のふれあい方が描かれる。その中で優介もだんだんと死者である自分の限界に向き合うしかなくなってくる。だから派手な悲劇も感情の爆発もないけれど、物語は切ない。初冬の小春日和みたいな切なさだ。

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黒沢作品ならではの違和感というか奇妙な感じは、本作ではほとんどない。はっとするようなビジョンもここぞというところでだけ使われる。黒沢作品でお馴染みの廃墟めいた風景が、本作ではいつもとは違う、この物語ならではの意味でドンと見せられる。でもそれ以外は、見る人が当然予想し、たぶん期待する、終わりの予感のある旅の切なさを邪魔しない、わりとストレートな情感のある物語になっている。

浅野忠信はいつも通りで、余計な芝居がなく常にフラットで、雰囲気的にも死の香りがない。本作の描き方にぴったり合っている。逆に感情の起伏が激しい役をやったらどうなるんだろう? 深津絵里は役によっては色々変えられるタイプだと思うけど、本作ではわりと伝統的な健気感を出している。唯一激するシーンが、生きている人間への嫉妬だというところも面白い。ちなみに『スパイの妻』主演の蒼井優が本作にも1シーンだけ出ている。ちょっとしたたかな〈女〉の役で、雰囲気が柔らかいだけに逆にいい収まりだ。

このささやかな物語、舞台は穏やかな田園風景や地方都市の景色で、ロケは神奈川県や千葉県の東京近郊でやっている。最初のエピソードは丹沢山地のふもとの山北町谷峨駅が映る。背景に山が見えていて、すこし古びた商店街があって、ノスタルジックな物語にぴったり合っている。

そんな感じの本作だけど、音楽はわりとベタにエモーショナルなオーケストラの劇伴がつく。切々と美しく歌い上げる感じだ。泣ける系の日本映画だったらお馴染みだろう。監督もあえてひねらずにこうしたのかもしれない。個人的な好みでいえば、もう少し音も淡々としてのでもいいかな、とは思った。

 ■写真は予告編からの引用

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スパイの妻(名監督と蒼井優 その2)

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<公式>

ストーリー:1940年、神戸。貿易会社の社長、福原(高橋一生)と妻、聡子(蒼井優)は西洋館で暮らし洋食をたのしむ裕福な夫婦。あるとき甥の竹下と満州に渡った福原は何かを目撃する。帰ってからの彼は聡子には分からない秘密を竹下と、そして満州から連れ帰った草壁という女性と共有していた。疑念と嫉妬に取り憑かれる聡子は、ある日、憲兵隊の分隊長になった知人、津森(東出昌大)のところへむかった....

祝、ベネツィア映画祭監督賞。後付け以外のなにものでもないけど、ヨーロッパの映画祭で愛される作品かもなぁという気がすごくした。斬新な映像表現や地域性、現在性のある題材というわけじゃないけれど、100年ちょっとの「映画の歴史」を愛し、リスペクトし、映像そのものを物語の中心にすえて、丁寧に「今の映画」バージョンで再現したのが本作だ。

ぼくが思い出したのはポール・バーホーベン監督の『ブラックブック』。それからブライアン・デ・パルマ監督の『ブラックダリア』。ブラックつながりはたまたまで、どちらも2000年以降に作られた、1940年代舞台のドラマだ。『ブラックブック』はナチと渡り合って自分の生き方を貫くヒロインに、『ブラックダリア』は過去のノワール映画のパスティーシュっぽく雰囲気を再現した作りに共通するものがある。

 

 

受賞&公開に合わせた黒沢清監督のコメントがいろいろ見られる。芸大時代の教え子たちが神戸を舞台とした脚本を書き、監督を招き、NHKのドラマ同時制作となったことで大河ドラマの屋外セットを使えて、衣装部は時代に合わせてしっかりした衣服を仕立て、そして俳優たちは小津の『風の中の牝鶏』などを手本に巨匠監督たちの時代のセリフ回しを再現する...

黒沢監督というと、作家性と比べて制作体制が貧弱で、監督のビジョンに映像が追いつかないか、あるいは割り切ったんだろうという撮り方になっていたり、というイメージがどうしてもあった。『回路』とか『散歩する侵略者』『カリスマ』みたいな作品だと、リッチな海外作品を見慣れた目からは、カタストロフシーンのチープさが気になってしまったり、『トウキョウソナタ』や『岸辺の旅』みたいに、繊細な見せ方に徹して、ロケ地も遠隔地を選ばずに撮り切ったり。

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本作は脚本に対して「やむなく」的なシーンが目につかない。上に書いたみたいな制作体制の充実が大きいんだろうと思う。それと大きすぎるシーンは慎重に避けられている。無理なスペクタクルは一切なくて俳優たちの演技で見せていき、時代の雰囲気は大河ドラマを流用した広い、作り込んだセットや、ちゃんと選ばれたロケ地、神戸の実在の西洋館や、たぶん戦前のビルを流用した憲兵隊の庁舎、古い旅館などで感じ取れる。

ストーリーは黒沢作品では異例なくらい明快だ。黒沢作品でときどき感じられる、ストーリーのゆるみというか拡散や、物語と象徴劇的なものが入り混じり「どこまでリアルなものとして受け止めればいいんだ?」というような迷いは本作にはない。物語の中では現実だけを描き、物語が向かう目的も一貫している。その中で夫婦が愛しあいながらもゲーム的に振る舞うところが、今までの黒沢作品の、わりと出来事に振り回されて流されがちだった主人公像と違って新鮮だ。主要モチーフになる、物語内で撮られる2つの映像の扱いもすごく効果的だ。

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本作の蒼井優は有能な経営者の夫に対する、無邪気で一途ですこし幼稚な妻として登場する。その印象があまり変わらないままで夫婦のパワーゲームに突入するところが意外性があって面白い。でもそのあとも一途な思いは変わらないのだ。クラシックな台詞回しも学芸会感はいっさいなく、画面になじんでいる。

夫役の高橋一生は、じつをいうと映像でちゃんと見た記憶がなかった。『シン・ゴジラ』とか見てるんだけど。そんなに派手な外見じゃないし、やや線が細いタイプだと思っていたら、本作の堂々とした存在具合には驚いた。序盤で、かれが経営する会社に憲兵の指揮官になった東出がやってくるシーンがある。古い映画の世間話めいた口調で、権力を手にした年下の知人に応対する大人のふるまいを演じて見せて、ちゃんと重みがある。

彼のセリフは自然な会話じゃなく、状況説明を兼ねた、演説になりかねない長セリフがけっこうある。それを高速でありつつ早口にも、演説にもならずに聞かせる。舞台キャリアが多いのもあるかもしれない。あと、なにげに衣装が特注というのは効いている。スーツが体型に合っていてシルエットが美しいのだ。長身でややルーズに軍服を着こなす東出と対照的だ。

というわけで、本作、全体にバランスが取れたエンタメで、スペクタクル大作じゃない「映画を見た!」という満足感がある一作だった。ある意味映画愛が溢れやすいジャンル、「映画を作ることの映画」的一面もある、そんな作品だ。

 ■写真は予告編からの引用

 

 

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銀座二十四帖

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ストーリー:銀座で花屋を営む通称花売りコニイ(三橋達也)は画廊でG.Mとサインがある1枚の絵に出会う。京極和歌子(月岡夢路)が出品した自分の若い頃の肖像画だった。絵の作者G.Mとの再会を願っていた和歌子はコニイの情報を頼りに探し歩く。次々とイニシャルG.Mの男が現れるけれど和歌子が探し求める人ではなかった。コニイはそんな和歌子を気にしながらも銀座の表と裏をかけ回る....

川島雄三監督、1955年の作品。日活制作。当ブログでいえば名作『洲崎パラダイス赤信号』の前年、同じような風俗モノ『明日来る人』と同年の公開だ。

本作、ストーリーの柱はヒロイン和歌子が探すG.Mは誰だ!? というミステリー。そこにコニイが狂言回しになって見せる、銀座の夜の世界とアンダーワールドノワール感をかもしだし、大阪から来たモデル志望の和歌子のいとこ雪乃(北原三枝)や、花屋で働く少女(浅丘ルリ子)たちのエピソードで若い風俗を散りばめる。

ノワール部分は銃撃があったり乱闘があったりヒロポンが流通したりで犯罪モノの空気もあるけれど、全体は軽妙ということばがぴったりのコメディだ。まず冒頭で森繁久彌のカジュアルな口調のナレーションが入る。このナレーションはところどころではさみこまれ、観客が物語に没入しすぎない適度な距離感と軽さをあたえる。

コニイは二枚目役だからおどけた芝居はせずにわりと真面目な正義漢でとおし、ヒロイン和歌子も健気な女性キャラで最後までいく。雪乃は当時の〈現代っ子〉で、スタイルはいいし、初対面の男性とも気軽に遊びに行くし、モデルオーディションに出場するし、和歌子といいコントラスト。当時の風俗映画でよくいた〈アプレゲール〉(戦後派みたいなもの)キャラの典型だ。

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そのほかバーに出入りする気取った画家の役で安部徹が出ている。『緋牡丹博徒 お竜参上』で憎々しいヤクザの親分をやっていたのとはまるで別人で、体はでかいがどこかお姐口調のカリカチュアされた役。ラスト近くまで身分を明かさずにいる謎の絵描き、大坂士郎はいまだと濱田岳の役だ。野球選手役の岡田真澄も若く、浅丘ルリ子はほぼこどもだ。登場人物が豪華で、わりと予算がある作品だったのかもしれない。

ただし、G.Mをめぐる謎解きも、ノワール的なアクションや悪役も、二枚目とヒロインのほのかな思いも、ぼくにとってはあまりささるものじゃなかった。三橋達也がそもそもそんなに好みじゃないこともあって、主人公に思い入れもない。けっきょく、本作の楽しさは「1950年代の東京の風景を思う存分見せてくれる」というところに尽きる。その意味ではかなり満足度が高いのだ。

タイトルに「銀座」とつくだけあって銀座が空撮から路地裏のロケまで映される。戦後たった10年なのに焼け野原感はまったくなく、ビルが立ち並び、銀座通りは都電と車と歩行者でにぎやかだ。当時の銀座のシンボル、柳の木が木陰を落とす。京橋も東銀座も高速道路はなくて、水路の風景が繁華街のすぐ近くにあるのが、今となっては新鮮だ。裏通りは今でも雰囲気が残るバーのある路地や、当時はあったらしい豆腐屋や八百屋が並ぶ庶民エリアも映る。

◾️1940−50年代の銀座(地理院地図)

銀座つながりで、池上線武蔵新田の近く、新田銀座が最初にうつる。このへんには花の農家があったらしい。完全な田園風景で、地元の人たちも「東京へ行ったら」なんて言っている。都内なのにそんな感覚だったんだろうか。花を積んだ車は環八を走る。とちゅう一瞬鹿児島市内が映ったり、物語の流れで大阪御堂筋のイチョウ並木や、いまはない大阪球場や、藤沢片瀬海岸も映る。アクションシーンは銀座4丁目近くのビルの屋上ロケっぽい。

映画のつくり自体、ストーリーと無関係に森繁久彌が銀座の街と周辺の紹介をしたり、やっぱり物語と距離感があって、主人公は銀座の街なんだな、という気分にさせる。ちなみに本作に映る建物で今でもはっきり分かるのは4丁目の服部時計店くらいで、松坂屋もGINZA-SIXになってしまった。ただし外から見るとまったく現代風の松屋は、じつは今でもこの時代の建物で、というか1930年代のがそのまま生きている。

それにしても1955年でこの感じ。なんだか混乱するくらい、戦争の影が見当たらない。物語的には戦争の記憶はあるし、花屋の少女たちは戦争孤児だろうし、ヒロポン常習者がいたりして、当時の雰囲気はあるんだけど.....そこは作り手と観客の思いの一致なのかもしれない。気軽に楽しむ娯楽映画なのだ。わざわざ映画で描かなくても瓦礫の山もヤミ市もいくらでもあったんだろう。スクリーンの中では楽しげな部分だけ切り取ったとしても、それがエンターテイメントの役目だ。

◾️写真は日活配信チャンネル『銀座二十四帖』冒頭から引用

 

 

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