ファントム・スレッド

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<予告編>

ストーリー:レイノルズ・ウッドコック(ダニエル−デイ ルイス)は高級オートクチュールのデザイナー。ロンドンにあるメゾンは主人である彼とマネージメント担当の姉シリルとベテランの女性スタッフが働く。リゾート地のレストランでウェイトレス、アルマ(ヴィッキー・クリープス)と出会ったかれは自宅に呼び寄せ自作のモデルに起用する。朴訥な田舎娘に見えたアルマはしかしただのお人形じゃなかった。彼女の存在が徐々にレイノルズの世界を侵食しはじめる........

「円熟」する作り手、「円熟」しない作り手。ぼくの勝手な印象だ。円熟しない作り手はたとえばテリー・ギリアム塚本晋也ウェス・アンダーソン。技量や扱えるプロジェクトも含めた総合力は変わっても、初期作品に感じたなにかが比較的表に見えるタイプだ。ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は逆に着実に「円熟」しつつある作り手に見える。『パンチドランク ラブ』や『ブギーナイツ』はいまの彼からは想像しにくい。『ゼアウィルビー ブラッド』『ザ マスター』辺から作風は重厚になり、はったりめいたカットも目立たなくなった。

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本作はまさに円熟感ある。画面は徹底してクラシックで如何にもなカメラワークもエフェクトもない。カメラは小津っぽくもある構図で、室内空間でフレーミングされた中で人が動く。音楽は『ゼアウィルビー』以来のJ・グリーンウッドだけど、今回はクラシックとピアノのサウンドをおりまぜて、妙な緊張感を高める不協和音もない。1950年代のロンドンと海辺のリゾート地(Whitby)が舞台で、主人公は上流階級を顧客にするドレスメイカー、画面に映るすべてが優雅だ。

物語も語り口もどこか丸みを帯びて、『ザ マスター』にあった明白なまがまがしさみたいなものは見当たらない。そろそろ老い始めたリッチな男が無垢な若い女に惚れこみ、自分好みに仕上げようとする、いわゆるピュグマリオン型に見える。ヨーロッパ映画の伝統である「老いらくの恋」パターンの香りもする。『欲望の曖昧な対象』みたいな。ある種の図式なんだよね。『アンチクライスト』でも書いたみたいに、男が権力と文化的洗練を持ち、女をウィルダネス(野生)の側に対置する。ここでもわざとアルマのがさつな食事シーンを何度も挿入する。若いアルマを家に招いても、その体を計測し、ぴったり合う衣服をつくり、衣服に彼女を抱かせるだけのレイモンドを「渇いてないの?」と挑発するのも彼女だ。

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ピュグマリオン型は男が自分の作品のつもりでいた女が、自我を表に出し始めてかれの器に収まらなくなるところで破綻する。本作では女は早々に自分を表しかれのスタティックな世界を揺らがせる。そもそもお人形じゃなかったのだ。男ははじめから弱みや欠落がわかりやすくあって、力で支配できるタイプじゃない。母親への欠落感と愛慕につきまとわれているかれを、アルマはやがて母親らしく食で支配する。

姉のシリルは弟を尻に敷いていて、弟は依存から抜け出せない。でも姉は弟を独占したいのかというとそうでもないのだ。アルマがレイノルズの愛人然とふるまってもそこは冷めた目で見過ごす。単なる敏腕マネージャー風でもあり、ちょっと置き所が見えにくいキャラクターだった。

アルマとレイノルズの交わりは、露骨な性描写じゃなく食事のあれこれで表現される。最初の出会いでは男は旺盛な食欲をウェイトレスである彼女に向けて見せつけるし、カップルの儀式であるはずのディナーに姉が入ってくることで男女関係の不能を匂わせ、食事シーンのがさつさや優雅さで男女の力関係を表現し、そして支配関係へ.... 

ダニエルは鋭角そのものの顔相を心ゆくまで見せる。アルマ役のヴィッキーはこの役には面白いバランスだ。顔にエキセントリックな雰囲気はなく、ぬぼっと背が高いタイプ。日本でいえば長澤まさみというより黒木華的ともいえる(背はちがうけど)。シリルは大奥風の、若さは失ってもクールな支配力のある女性キャラクターでこの物語にはあってる。

ちなみにレイノルズが運転するクーペがブリストル405という高級車。17歳の肖像』でも使われた同じ車だ。服飾にくわしい人なら1950年代の高級女性服のつくりやディティールやらもきっと楽しいだろう。映画でドレスを縫っている初老の女性たちはみんなじっさいにその仕事をしている人たちなのだ。

■画像は予告編から引用

 

  

 

 

 

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ペンタゴン・ペーパーズ

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<予告編>

ストーリー:ベトナム戦争中の1971年、ニューヨークタイムスにある記事が載る。 "History of U.S. Decision-Making Process on Viet Nam Policy, 1945-1968" と呼ばれる政府の機密文書、ベトナム戦争に至る政府のあきらかになっていなかった活動や、その見通しが書かれていて、当時すでに反対運動がかなりな勢いになっていたアメリカで、この記事は相当なインパクトをあたえた。ワシントン・ポストの記者も少し遅れてこれを手に入れる。でもこの記事を記載することは政府の訴追リスクがあり、会社経営にもひびく。亡き夫の後をついで社主になったキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は報道部のリーダー、ベン(トム・ハンクス)と経営陣の間でゆれる....

「つくられるべき映画」の代表例。『ミルク』とか『キッズオールライト』みたいな政治的主張を商業映画におとしこんだ作品だ。アメリカは明白なジャンルとしてこれがあるんだね。メジャーな俳優が主演をはり、それなりにお客も入る。本作は女性脚本家が書いて作品化候補リストにあったものを女性プロデューサーが実現させ、監督スピルバーグは『レディプレーヤーワン』撮影後に超速攻で撮影を完了、公開した、というのは良く知られた話。

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政治の圧力に報道が敢然と立ち向かったぜ! という、トランプ時代だからこその話なのはもちろん、それと同等に今の映画らしいのは、当時は超少数派だった女性経営者(しかもメディア企業の)、キャサリンが、報道の大義のためにリスクをとる決断をする(まわりのおっさん役員たちのあれやこれやのプレッシャーをはねのけて)、という女性の自立の話なのだ。

サスペンスとして見てるとあまりスリルは感じなかったというのが正直なところで、やってやったぜー という歴史が示す歓喜のラストも、それよりは『デトロイト』みたいな苦いオチの方がむしろ心に根を下ろす感じがする。

見ていて実感するのは、新聞はメディア(=形のない情報をつくる組織)なんだけど多分に製造業的だということだ。しかも当時は信じがたいペースで物理的に活字を組み、巨大な印刷所で輪転機がぶんぶんと回り印刷された朝刊という製品をつくりだす。

キーボードで記事をうち、画面でレイアウトを決めて、ポチッと「送信」を押す世界とはまたちがう重みをスピルバーグは分かりやすく描写している。

■画像は予告編から引用

 

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グレイテスト ショーマン



<公式>
ほとんど予備知識なく見たけれど、ああ、こういう映画だったんだね。実在人物ベースで奇想ショービジネスを主催する男の一代記でありつつ、今の時代へのメッセージである「ノーマルとアブノーマルなんてない、自分は自分であれば」という話だったんですね。お話の構造は『SING』にとても似ている。興行主という、うさんくさくも魅力的な主人公。
さいきんのやり方にあわせて、舞台は19世紀でもそこで見せられるショーの歌やダンスは今のものだ。それにしてもミシェル・ウィリアムズはきれいだなあ。
■画像は予告編から引用

カメラを止めるな!



<公式>
これはもうね、当ブログでもなんども書いている「映画をつくることの映画」のおもしろさそのものなわけです。その入れ子っぷりが2重どころか4重にまでなってるところを、それもちゃんと見せるところが痛快なんだよね。最終的にはドキュメンタリックになってくるわけで。上田監督が「三谷幸喜が先生の1人」だというのはじつによくわかる。直系は映画について描いた『ザ・マジックアワー』より『ラヂオの時間』かもしれない。三谷の映画はじつをいうとそれ以外あまり見ていないけれど、『王様のレストラン』だっていろとりどりの変わった人物たちが、それぞれの事情や欲望をぶつけあいながらも、最後はチームとなって何かを作って、ひとに提供することの話だった。そういう空気は共通のものをたしかに感じる。
■画像は予告編から引用

未来のミライ



<公式>
細田監督のキャラクターデザインは、『時をかける少女』〜『おおかみこどもの雨と雪』くらいは貞本義行だった。最近は細田監督自身みたい。でもあまり違って感じないね。較べてみていないせいかもしれないけれど… で、このキャラクターデザインががらりと変わった作品も見ていたいな、というのが感想です。
なんていうんだろう、今の彼の作品の微妙なデフォルメ具合。リアルじゃないけれど、じつに破綻がないデフォルメだ。女の子も萌え絵とかじゃなく日本人ぽいし、年をとった人もきちんと(そしてけっして汚くなく)描いている。本作ではところどころに漫画漫画した表情をいれて息抜きにしている。実写と違和感なく、それでいてアニメならではの視覚的快感もあるバランスがかれの持ち味なんだ、といわれればそうだ。背景は正確で省略のない写実的なもの。谷尻誠氏デザインの住宅も、フルCGの東京駅も魅力的だ。
でもなんというのかな、このデフォルメ具合がぼくにはどことなく居心地わるいのだ。細田監督はアニメ独特の魅力は、日常動作をあえて再現するところだといっていた。実写でやれば面白くもなんともないところを絵で見せられたときの快感。それをやるには必要以上のデフォルメはじゃまなのかもしれない。だけど人物はきれい目に、スタイルも非現実的によく、そこはある種の日本漫画の伝統にあわせてチューンしてあるわけだ。名声とともにビッグプロジェクト化していく彼の作品で、あえて文法からはずれたキャラクターとかはむずかしいのかもしれない。でもなんだろうなあ、こぎれいじゃない絵で描いたかれの世界も一度見てみたいのです。
■画像は予告編から引用